supren hejmo

日本人の霊性への想いうすし

言霊の国日本といわれたこともあったが,最近では少し事情が違うようだ.葬式無用論や散骨思想がかなり喧伝されている.それは現代葬祭業者や寺院への抵抗でもあり,それぞれの人間のおごりのあらわれかも知れない.

先日,山折哲雄先生(白鳳女子短大学長)の講演を拝聴できた.先生は浄土真宗のお寺の出身ながら,文明・文化への鋭い論法を展開される日本のオピニオンリーダーの一人だ.1992年6月,日韓フォーラムが日本で開かれた.日本と韓国の学者が一堂に会して両国に横たわる歴史・文化・生活などの諸問題を取り上げ,多角的な討議を展開した.山折先生は,その時に「なぜキリスト教は日本に根付かなかったのか」というテーマで報告.会議後のレセプションで韓国の仏教学者李箕永氏(故人)が先生にコメントをくれた.それは,日本の宗教の問題に及んだ時だった.李さんは「中村雨紅のつくった『夕焼け小焼け』の歌の中に日本人の仏教観が実によく表現されていると想う」と突然言われた.

夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘が鳴る
お手々つないで皆帰ろう
烏と一緒に帰りましょう

この詩に日本仏教の背後に宿る自然観とか生命観とかがみごとにうたいこまれている.まさに無常感とか自然との共生感覚といってもよいものだ.そして,仏教が国民宗教化したというのはこういうものかも知れないと語っていた.山折先生ご自身がご尊父を亡くし夕陽に出会った時に本当に「愛別離苦」を実感したらしい.山上の阿弥陀佛,木下順二の「夕鶴」などの例も出された.山折先生の言に私は賛成だ.「モノやカネ」が中心になって,霊性を見失いつつある日本人に大いに反省してもらいたい.同時に「夕焼け小焼け」の童謡の奥に流れる日本人のすばらしい情感を味わってほしい.今こそ「霊性」とは何かを考え直してみてはいかが.


ザメンホフは観音菩薩なり

関東エスペラント大会が東京中目黒スクエアで6月27~28日まで開催されました.水野義明会長からの依頼で,私はシンポジウム「ホマラニスモの現代的意義」に出席しました.司会水野氏,パネリストに小林司さん,高校教諭の北川郁子さん,宗教者として私,という顔ぶれ.小林さんはホマラニスモについて著書も多く,今回は基本的な提言をいただきました.シンポジウムの経過については省略し,私の発言を略記します.その前に,小林さんの言を少しだけ紹介しておきます.

Homaranismo は1906年3月にザメンホフが公表した新しい宗教案の名前です.それは「私はある民族の一員であるよりも前に人間である」を骨子として諸宗教の橋渡し的宗教プログラムだと言うことです.民族差別に虐げられていたユダヤ人ザメンホフは,人類をひとつにし,「諸民族の間の友愛と正義」を実現させる手段として,1887年に国際共通語エスペラントを創りました.しかし,世界の人類を兄弟のように仲良く一つに結びあわせるためには共通語だけでは力不足であるから,「言語における橋渡し的共通言語エスペラントが必要なのと同様に,宗教においても諸宗教間の橋渡し的共通宗教が必要だ」と1899年から彼は考えていました.

人類人主義の考えは仏教に通じます.悉有仏性を掲げた仏陀が2500年前に「生きとし生けるものは同時にみんな悟っている」と成仏を説きました.唯一神を持つユダヤ教,キリスト教,イスラム教と違って仏教は無我説をいいます.異民族,異教徒を暖かく迎え入れる寛容の精神で貫かれています.ザメンホフのホマラニスモはまさに仏教の慈悲の精神の表れです.慈悲の具現者・観音です.その意味でザメンホフは「普言無辺救世観音」と称せられるでしょう.ザメンホフは泉下で驚いてますかな.


やさしい仏教の必要性

人びとの心から離れた時は,いつの世も仏教は衰えています.13世紀のインドに於ては煩瑣哲学に堕したために仏教は土着のヒンズー教に吸収されていきました.

最近の仏教はどうかといえば,学問仏教,哲学仏教,宗学仏教となり,かなり民衆から離れています.先日,私の知友の駒沢大教授吉津宣英氏が春秋社から『<やさしさ>の仏教』を発刊されました.

彼いわく,「本書は,現代の日本社会において,仏教を通して「やさしさ」の実現を意図したものである.そのためには,まず仏教自身が「やさしい仏教」になっていなくてはいけないと思う.「やさしさ」とは「優しさ」と「易しさ」の二面よりの,人間にやさしく,また平易で分かり易くお互いに大切にしあえる世の中になったら良いと念願する.」とあります.

読了して,テーマもよく,勇気のある発言でしたのに,漢字が多く,専門用語を捨てきれないので,この書の解説が必要な感を強くしました.宗教者,学者としてのこだわりをなくし,「人間」そのものとしての立場でわかりやすく表現していく時に,人びとは共感するでしょう.「やさしい仏教」は,これから大いに必要です.真理の言葉を今に生かすために,私たちは大いに努めなければなりません.内容のあるやさしさを求めて.


ノストラダムスの大予言と仏教徒

風説に惑わされたくないというのが現代人の心境だと思う。南フランス・プロヴァンス地方に生まれたノストラダムス(1504-1566)が予言書『諸世紀』の第10巻72編に彼の考えを示している。

1999の年、7の月
空から恐怖の大王が降ってくる
アンゴルモアの大王を復活させるために
その前後の期間、マルスは幸福の名のもとに支配するだろう
(五島勉訳)

世にいう大予言である。1555年発表された。彼はペストに立ち向かった科学者でもある。関係の書は多く出版され、今年は日本で映画も公開された。しかし、私は仏教徒として、今年は地球滅亡なしと思っている。仏教では有名な三法印を示す。諸行無常、諸法無我、涅槃寂静である。さらに、諸法実相の展開から今世浄土もいわれる。真言密教ならば密厳浄土、日蓮宗ならば釈尊の在します霊山浄土だ。浄土系ならば西方極楽国土教主阿弥陀仏の世界である。すべてのものに変化があるということであれば、地球の変化は必ずある。ただ不確かな風説を流さず真実を見極め、日々の精進努力をうながすのが仏教徒の生活だ。世間虚仮、唯仏是真と聖徳太子はいう。仏教徒は真眼、慧眼を持ちたい。


世紀末にいかしたい大乗仏教の精神

地球にやさしくなどということばが聞かれます.同時に地球破滅の条件を示して世の終わりの近付いていることを予言している人もいます.

今,私たち仏教徒に必要な精神は自覚覚他の大乗仏教の精神です.

初期仏教,部派仏教ではあらゆる煩悩,罪障を逐一繰り返し観察してそれらの完全な滅尽をめざして地道な修行を繰り返しました.大乗仏教では,彼岸(さとりの世界,安心の世界)に,み仏への願いを持つことによって一足飛びに到達することを示しています.

般若心経の羯諦偈のところに「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提 薩婆訶」とあります.(往けるものよ往けるものよ,彼岸に往けるものよ,彼岸に全く往けるものよ,さとりよ,幸あれ)と,自覚覚他覚行円満とも訳され,自度他度普度彼岸度覚成就とも訳されているところです.

大乗仏教の精神は偉大なる救済思想です.そして,共生で共死であることを示唆し,積極的な布施行を促しています.ただ,大乗仏教にやや難点があるといえば,自己責任思想を軽視,無視,否定する要素が含まれています.排除,抹殺の思想に陥らぬよう留意したいものです.

人を愛し,自然を愛し,歴史を越えて生きる大乗仏教は今こそ必要であり,大いなる智慧を中心に進めたいものです.


愛語よく廻天の力あることを学すべきなり

言語権について取り沙汰されています.言葉の持つ重さ尊さについてエスペランチストはよく知っており,実践されております.

大岡信さんは言葉を大切にされている人です.彼はNHKで先日「言葉は生活だ」と言っておりました.言葉は心の調べですから,おのずとその人の生活がにじみ出てきます.そして彼は「今の若者はあいまい語が多く,語頭と語尾の音がよく聞き取れない」と指摘していました.現代人にお願いしたい彼の言葉は「落ち着きと強さを」でした.プロ野球の西武の松坂投手は,インタビュアの「あなたの夢は?」という質問に対し,「夢という言葉は嫌いです」とはっきり答えていました.大岡さんは「松坂君は,努力をしてきて過去についてはよく知っており,未来は壁なんで,それをはっきり意識しているので,夢というあいまいな言葉に対して明確に回答をした.」と言っていました.

私も松坂君の言葉に賛成です.夢は大切ですが,夢のみ追って現実に努力しない人は自分の存在感を見い出し得ません.道元禅師は「愛語よく廻天の力あることを学すべきなり」と示しています.真実に根ざした慈愛,顧愛の言葉は,私たちの心の世界をひっくり返すほどの力があるということです.大岡さんの,言葉への願いと共通するものを示唆しています.各宗の祖師たちの言葉にも人類への宝物が多く遺されています.


比較哲学・比較思想の日本人巨星逝く

Mi pensas, do mi estas. 人間は考えることのできる存在である.哲学は愛知の学であり,思想は各々の民族が産出した文化である.今やそれらがインターネットを通じて人類共有の知的財産となりはじめている.

日本人として世界に情報を発信した人は数多くいる.中でも鈴木大拙氏の著述は欧米人に多くの感銘を与えた.しかし,忘れてならないのは,今年あの世の人となった巨星中村元博士(1912-1999)だ.

ノーベル文学賞を授与されても不思議ではないお方である.彼の膨大な著書を紹介する紙幅はないが,『東洋人の思惟方法』『思想をどうとらえるか』などは,人類に多くの示唆を与えた.ふつう哲学や思想といえば,欧米の人たちが中心になりやすい.しかしインドのタゴール,日本の中村は,人類にとって哲学や思想は全地球的なものであることを示している.中村はいう.「今後の世界に必要なものはコスモポリタンの思想--世界公民,四方をもってわが家となすという理想であろうと思う.(中略)各民族の多様な文化を,それぞれ継承してその特性を生かす,そしてその間に,協和,和の精神を実現するのである.」

何とザメンホフ博士を彷佛させるものではないだろうか.大いに後へ続こう!


少欲知足の世界を実現しよう

まもなく新世紀に入ります.20世紀よりも,私たち人類は着実な歩みを進めたいものです.

私は次のように考えております.それは,従来の貪欲飽満時代からの脱却です.少欲知足経済への移行が大切です.地球という私たちが住んでいる星では,未来において資源が次第に枯渇していくことは各データによって明らかです.人間の欲望を拡大増幅する右上がり経済よりは,少欲知足に注目せざるを得ないのが,今日的課題であると思います.

『仏遺教経』の中に次の言葉があります.「多欲の人は利を求むること多きが故に苦悩も亦多し,少欲の人は無求無欲なれば則ち此の患(うれい)無し」と,少欲のより優れていることを示しています.「不知足の者は富めりと雖も,而も貧し.知足の人は貧しと雖も而も富めり.不知足の者は常に五欲のためにひかれて,知足の者のために憐愍せらる」と知足について示しています.足ることを知らないものは,多欲なので,きらびやかに飾り立てても心はぼろぼろです.

早く少欲知足に気づくべきであり,日常生活に実践していきたいものです.ザメンホフ博士の人類人主義の根底にあったものも,このものの命を大切に,相互扶助の精神でありましょう.エスペランチストも少欲知足の意義を時には考えたいものです.


仏教経典の現代語訳を進めよう

「どうしてお経はこう難しいのだ」という声が聞かれる.私も同感.僧侶たちの責任は重い.理由は多々あろう.その一つの重要な原因は,漢訳ものを読誦しているということだろう.宗派によっては,呉音・唐音・漢音と読み方が違う.黄檗宗では福建省の言葉で読む.日本の祖師たちの書かれたものであっても,現代人にとっては漢語が多く,通じなくなってきている.

経典は,珠玉の言葉で連なっているのに,その真価を伝えられないことは残念なことだ.ある先生は私に「仏教を知るには,聖書を読み,その後で経典を読むと良く理解できるよ」ということだった.この意見は分かるような気がする.キリスト教の聖書の口語訳は見事なものだ.それと比較して仏教側は,宗派としての解釈の違いからか,どうも現代語訳が進まないというのはもどかしささえ感じる.

僧侶の中には,現代語訳すると有難味を失うと考えている方もおられる.私は一歩進めたい.経典は梵音であり,聖音であり,真実の言葉だからこそ,まさに生き地獄の中にいる多くの人々に経典の真実を伝えていきたいのだ.専門家はとらわれて詩情が伝わりにくい.素人訳の方が大胆で現代人に伝わりやすい.もし誤訳があれば正せばよい.

愛語であれば諸仏,諸菩薩,諸天善神,祖師たちもお許しになろう.急がなければ.


現在地獄の意味するもの

マスコミシンドロームがある.朝夕の報道による地獄絵図に耳を塞ぎ,目を覆いたくなるからだ.親が子を殺し,子が親を殺す.少しの疑いをかけられると一家7人を殺害するという有り様だ.源信の『往生要集』や民間の『地獄草紙』のようなことが日常現れていることが奇異に感じる人は多いだろう.

地獄は,梵語でnaraka(音写語で奈落)の訳語である.悪い行為を積んだものが落ちゆく道であり,種々の責め苦を受ける地下世界の総称だ.だが,この地獄道は私たち人間が真実の世界を知らない時に陥る世界である.仏教では真実の世界を知らない状態のことを無明の中にあるという.迅速に御仏の光明を伝えていくところに重大な意味がある.

敗戦後,日本人は「神も仏もあるものか」といって,物や金中心の文化を形成してきている.世の動きを敏感に捉える青少年の心に最も大切な,目に見えないものに畏敬の念を抱くということを忘れているのだ.

仏教では,諸仏が大切にした言葉として「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」を伝えている.悪いことはしない,善いことは進んで行っていく.当たり前のことができない現在地獄こそ悲劇だ.

一日も早く寂光浄土の光明の世界を知って誓願行に生きてほしい.


二十一世紀の宗教

二十世紀の特徴は高度科学文明の増大と精神文明への移行を予知する雰囲気があった.

今でも,戦争と平和について解決することなく人間存在の問題が続いている.

エスペランチスト小林司氏がなだいなだ氏と共著で『20世紀とはなんだったのか』(朝日新聞社刊)を発刊し,マルクス,フロイト,ザメンホフを紹介している.経済を科学的に考究する代表者.精神世界を究明した偉大なる先駆者.国際補助語エスペラントを発明し,人類のためにその著作を全て投じ,ホマラニスモを推進した医学者.二十一世紀への道筋を作った人たちである.三者に共通しているのは“この不思議なる存在,人間”に対する深い愛情に根ざしたものであると私は思う.ただ,残念なことに,二十世紀に偉大な宗教者は出ていないのだ.戦争という権力の闘争の中に埋没していったのである.かすかながら曙光は見えている.マザー・テレサやガンジーなどの活動がそれだ.彼らはまさに無私の人である.釈尊の心に通じている.

二十一世紀という新世紀に当たり,必要なことは,宗教をさらに見直し,平和で幸福な世界を確立するところにある.新しい霊性の発見とも言えよう.

ただ,今日までの宗教の中で,西欧の宗教学者たちは,キリスト教,イスラム教を上位と見て,仏教や開発途上国に人々が信じている宗教を低級なものと見ていたきらいがある.

比較宗教や比較哲学が進んで,世界の人々のものの見方の共通性が明らかになっている今日,他を排除する一神教は見直さなければならないだろう.ヤハヴェを信ずるユダヤ教,キリスト教,アッラーを信ずるイスラム教など.彼らを大きく包含できるのは寛容性があり,個を認める仏教しかないであろう.

二十一世紀の宗教は,すでに存在している.それに逆行したものが過誤を犯したのだ.


菩薩の四無量心を実践しよう

新世紀に入ったにもかかわらず,多くの人々は煩悩のしがらみの中に埋没している.しかも「東京砂漠」といわれるように,乾いた心の中で生活している.人として信に根ざした慈しみや敬いの念が不足しているために,人間不信という現象をかもし出している.私はこういう時代だからこそ,仏教の教えを現代に生かしていきたい.

大乗仏教では,僧侶も一般の人々もそこに何の区別なくみ仏の光に照らされることを強調している.中でも菩薩という修行者であり誓願の実践者は大慈大悲の四無量心の実践を促している.四無量心というのは,慈悲喜捨の四つの心である.慈無量心は,相手が努力しているとその人のために励まし,道心の成就のために手伝う行為を促すやさしい心根と実践だ.悲無量心は,人々が悲しみ,痛み,うめいている時に,その人々と共に癒す無量の心である.喜無量心はみんなと共に喜びあうこころである.人間の心の中には人をうらやみ,ねたみ,素直に他人の幸福を喜べないというところがある.自他共に喜びを共用,共感できることである.同事行ともいう.次には,捨無量心がある.捨無量心は自分が他人のために何か世話をしたとしても,それを恩着せがましくしないということである.これがなかなか難しい.「あの人は,私の助力のおかげで,今の地位がある」と広言しがちだ.菩薩はとらわれることなく,自在な「捨」を大切にされている.真宗の方で登場する妙好人の生き方が典型だろう.仏さんにまかせきるという生き方ができるならば,本物だ.

現代は情報交換の盛んであるにも関わらず閉塞性が進んでいる.信に根ざした四無量心の実践が,その一つの解決になるのではないだろうか.あなたも私もみんなみ仏の懐の中に抱かれているのだという安心感を確立していきたい.


転識得智の妙味

IT革命といわれる時代にあっても,私たちは情報の根源について知らないようだ.釈尊は人間存在について,自灯明法灯明といわれている.自分の心の存在をきちんと把握し,それを深く見,考え,学ぶという三慧が求められている.具体的には,よく物事を観察し,善知識の話を聞き,それを自らの身体で深く考え,日常生活で行動に移していくのである.そのことによって,おのずとその人に徳が備わる.これを薫習くんじゅうあるいは醇熟じゅんじゅくという.人の習慣は無意識に外に現れるから,気を付けて日常生活を送らなくてはならない.

仏教では神という言葉は使うが,その神は創造神という意味ではなく,守護神という扱いである.仏教では一切の存在を法という言葉で表すことがある.この法の分析から縁起という考えが出てくる.すべての存在はあいよることによって成立している,というのである.唯一神が世界を創り人間を存在せしめた,とは考えない.2500年前の釈尊の叡智は,まさに真理そのものであり,現代においてもいささかも色褪せていない.

最近話題になっているアラヤ識は唯識学派の概念である.私および私を含む世界は,すべて識によって作り出されている,あるいは私たちの心の映像である.対象も自分もすべてが輪廻の流れの中の識の現れにすぎない.そういう事実に目を開いた時に,識が転じて智が得られる.その智とは,私という執着もなければ,私の対象という執着もない,そういう無執着の世界での認識作用をいう.その「転」の基盤をなすのが縁起(依他起性*)であり,その事実に目覚めた時,私たちはいかされてある生命の大切さに思いをいたすことができる.そして私たちの人生が活き活きしたものに転換されていくのだ.

*依他起性:唯識学派の説く「あらゆる存在は縁(すなわち識)に依って生じる」という見方.

秋彼岸に思う

暑さ寒さも彼岸までといわれます.あんなに猛暑をふるった今年の夏も既に過ぎ,朝夕少しずつ涼しくなってきました.

古人は,昔から春と秋に彼岸会を行ってきました.春分の日(3月21日頃)秋分の日(9月23日頃)は,太陽が真東から出て真西に没する日です.このため昼夜の時間が等しくなります.国民の祝日として大切にされています.この秋分の日を境に秋の夜長の季節に入ります.

仏教徒は,み仏の教えに感謝しての1週間の報恩行をいとなみます.大乗仏教は六波羅蜜の教えを大事にしています.六つの実践行です.布施(与えよう物でも心でも),持戒(守ろうルールを),忍辱(耐えよういつでも),精進(努めよう真剣に),禅定(心を集中しよう),智慧(生かされている生命に感謝しよう)の六つです.六度とも言います.み仏の真実の道を歩むのです.み仏の大慈悲心は常に私たちを照らしています.その恩徳に謝しつつ生きるのです.縁あるものすべてに感謝し,亡くなられた方々への思いを大切にして歩むのです.秋彼岸は回心のチャンスです.


恨みは恨みによって止むことなし

希望にあふれた21世紀の幕開けのはずだった.しかし今,「聖戦」という名の世界戦争が続いている.ニューヨークの世界貿易センタービルが民間機の突入によって崩壊していった光景を世界中の人々は見ていた.死者の数は未だに明らかになっていない.世界経済のシンボルだった塔が倒れた.あたかも,地球市民に対する警告を予感させる.

富める者と貧しいものとの格差,圧迫する民族と被圧迫民族,この葛藤は,未だに続いているのが世界の現状だ.百億人になろうとする地球人は,いったいどこへ行こうとしているのだろか.

アメリカ合衆国は,タリバンやテロ組織に対抗して砲火を浴びせている.

ああ,地球市民よ.国家・宗教・民族を越えて,ザメンホフ博士の願いである人類人主義に立とうとではないか.

釈迦が在世時,生国シャカ国がコーサラに滅ぼされた話が伝わっている.かつて,シャカ国が王族の娘と偽って不可触民の娘を大国の王室に入れ,その太子を不可触民とあざ笑ったため,成長して王になった彼は,シャカ国を攻めたのである.カースト制度下のインドでの彼への辱めへの報復だった.釈迦はその時,国境の木の下で坐禅をしていたという.「親族の木陰は涼しい」と言って,コーサラの攻撃を二回まで中止させた.しかし三回目には,釈迦は国境から姿を消していた.その時シャカの心の中に去来していたのは何だったのか.自ら示された因果の道理を認めたためなのだろうか.

『法句経』には,「勝つものは恨みを招き,敗れるものは苦しみに臥す.勝ち負けの二つを捨てたる心平和なるものは幸せに住す.」とある.恨みは恨みによってやむことはないということを指摘している.恨みから平安への道行きは厳しいが努めなければならない.


切に思うことは必ず遂ぐる

今から2500年前,釈迦牟仁世尊は菩提樹下で坐禅を組みながら,12月8日お悟りになりました.その真理を体現して中国に禅を伝えたのが菩提達磨です.その流れを浙江省天童山で長翁如浄から正伝の仏法を受け継いだのが永平道元(1200-1254)です.今年は,曹洞宗大本山永平寺で750回大遠忌を営みます.その弟子に孤雲懐奘(1198-1280)がおります.京都出身で,比叡山に学び,倶舎・成実・三論・法相・浄土を学んで精究し,日本達磨宗の覚晏の教えも受けています.文暦元年(1234)道元より法を受けております.師道元のお聞書きで彼の著『正法眼蔵随聞記』があります.この中に,「切に思うことは必ず遂ぐるなり,切に思う心深ければ必ず方便も出でくるようあるべし」とあります.真剣に願い思えば必ず目的を成就できます.まして全身心を賭して考えぬけば必ず方法手段が発見できます.誠に力強いことばです.「念ずれば花ひらく」というのも似ていますね.仏教を信じる者は誓願によって生かされていることに大いなる喜びを昧得することができます.あせらず,常に願い励み謝すれば光にあえるのです。


盂蘭盆会

炎熱の夏の夜,京都の大文字焼き,各地での灯籠流しは夏の風物詩です。神社では「たままつり」をし,仏教では盂蘭盆(うらぼん)といいます。

『仏説盂蘭盆経』では,神通第一といわれる弟子・目連が世尊に母の餓鬼道からの救済を依頼し,世尊は答えます。「7月15日には雨安居が終る。この日に百味飲食を供養し,僧侶たちにお経をお願いしなさい」と。この供養により目連の母と六親眷属七世父母の供養が成就したということです。

日本の伝統仏教といわれる真言・天台・禅・念仏・法華のグループは「魂」とか「精霊」の語を使います。浄土真宗はこういう表現をしません。

このお盆の供養は「三界万霊法界含識」に供養します。盂蘭盆の回向の偈に,「以此修行衆善根 報答父母劬労徳 存者福楽寿無窮 亡者離苦生安養」とあります。仏に帰依し,先祖代々の諸精霊への感謝の誠をささげ,縁ある者,縁のない者全ての霊への供養をします。「普供養」といいます。大乗仏教の布施行の実践です。日本人のこころがこの盆まつりにこめられています。

「魂棚の奥ぞなつかし親の顔」

よい日本の伝統は一家総出で永く続けて行じていきたいものです。


supren hejmo