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"核のない社会"望見

「一切の生きとし生けるものは幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ。いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも悉く、大なるものでも、中位のものでも、短いものでも、微細または粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに或いは近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは幸福であれ。」(岩波文庫『ブッダのことば』より)

これは、これまで機会あるごとに紹介してきた、現代社会に生きる私たちへのブッダからのメッセージである。おシャカさまは2500年も前のブッダ(覚者)だけれども、そのことばは、20世紀末の“核なき社会”のヴィジョンを明確に示しているように思えてならない。

(1)核の軍事利用・「平和利用」をとわず、私たちに要求されているのは、「一切の生きとし生けるもの」を包含する視野であろう。現在、人類に限らず「生物生類」が絶滅の危機に瀕している以上、それを克服する道も、全体的な視野に基づいたものでなければなるまい。

(2)強大なものが、弱小なものの差別と犠牲の上に繁栄している現在の構造を転換し、おのおのの個性が平等に尊重され、その「幸福・安泰・安楽」がはかられるべきである。

(3)核・放射能は、まず「微細」で「目に見えない」領域から汚染・破壊しつつ、「粗大」で「目に見える」領域に悪影響を及ぼすことを開示している。全体の生態系は、むしろ前者の領域によって支えられていることへの認識と配慮が深められていくべきであろう。

(4)原発現地から「遠くに住む」都市住民、ウラン採掘や放射能廃棄物の処分を押しつけられている住民や国々から「遠くに住む」文明大国の国民の想像力の貧困は否めない。自らの浪費的な生活を問い直しながら、「遠くに住む」弱小の地域や住民への連帯意識と共存共栄の実践方法を見いだしていこう。わが若狭と関西・中京の大都市圏に限っていえば、美しい若狭の海(漁業・海水浴・観光など)を守ることこそ、相互の「幸福・安泰・安楽」を保障する道である。

(5)巨大な危険性をはらんだ原発とその推進勢力は、放射能にまみれた目先の札束とひきかえに、「すでに生まれたもの」の生命と良心を切り売りさせ、「これから生まれようと欲するもの」の生命をゆがめ、幸福を奪ってやまない。きたるべき“原発のいらない社会”の徴表の最たるものは、やはり「これから生まれようと欲するもの」たちへの深い配慮と責任が全うされるということではないだろうか。

La Japana Budhano 358号(2011年9月)より
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