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Informilo de JBLE, n-ro 31 (1955)

回顧三十年

仏教エスペランチスト連盟初期の歴史

ゲオ・ヨクソン(Geo Yoxon)

BLE(仏教徒エスペランチスト連盟)の創立は1925年です.私はその創立には関係していません.私が仏教徒と最初に接触したのは実際には1926年であります.仏教徒である皆さんは,私が仏教の輝かしい真理に初めて接した時に如何に自分の幸福を感じたかをたやすく理解して下さることと思います.特に私はみじめな無神論者だったからです.私はそれほど私を喜ばせて下さった貴い教えを,できるだけ広めたいと思いました.そこで私は,リバプールのエスペラント会のプログラムに,仏教について話したいと申し込んでおきました.その打合せの時に一人の同志が,少し以前にロンドンでA.C.マーチという人が,仏教講演をされたのを聞いたと話してくれました.私はこの同志からマーチ氏の住所を聞きました.斯様にして私は,親切で感動的なマーチ氏と手紙の上で親しくなりました.文通を続けているうちにマーチ氏の精神は非常に偉大であることがわかりました.このマーチ氏はすでに1925年,ラトヴィアの人エドガード・グロー氏と協力して仏教徒エスペランチスト連盟を設立せられていることを手紙で知りました.

当時リビングストン・エンキンス氏は「インテルニアーロ」という名称でエスペラントの内的理念を愛好するものの集いを組織立てていました.私たちはこの「インテルニアーロ」に入会して仏教徒の部門を作り,仏教論文を雑誌「インテルニ」にのせることを用意せしめました.しかし間もなく「インテルニアーロ」のキリスト教の会員たちが非キリスト教徒の部門を雑誌から分離することを申し出たので,仏教徒は「インテルニ」から手を引き,英語の仏教雑誌「英国仏教」(現在は「中道」と改称)の中にエスペラントの部門を始めました.私が入会したのはその当時で,間もなく秘書の役目を引き受けました.

1931年1月,私たちは謄写版刷りの季刊雑誌第1号を20人の興味を有する人に発送しました.これが「ヘロルド・デ・エスペラント」で紹介せられたので,約20人見本を求める人ができました.

翌年の4月第2号を刊行して,57人に発送しました.これはまだ謄写刷りでした.ところが親切な助力者ができて資金の融通をして下さったので,私たちはちょっとした印刷機と活字を買うことができました.それで第3号は正確に7月に「ブッディスモ」という名称で印刷して出しました.

1933年2月には私たちの雑誌「ブッディスモ」は既に9号を出しました.発送先は120人以上になりました.1932年から1933年までの間に私たちは43ヶ国の人々から質問の手紙を受け取り,244人に返事を書きました.そうして会員及び購読者にきまって送る雑誌の他に,214人に無料で見本を送りました.そうしてこのすべての人へ発送する度に,マーチ氏はいちいち長い手紙を書きました.

雑誌「英国仏教」にエスペラントの部門を作っていた時分に,私たちは英語の書物「仏教とは何ぞや」の重要部分をエス語訳しました.また「亜細亜の光」という長篇の詩の第8巻から一百句のエス訳をしました.この詩はヒドル氏の好意で別冊として出しました.「ブッディスモ」を発行するようになってからダンマパダ(法句経)全巻のエス訳をなし,またエスペラントの仏教術語辞典その他多くの仏教記事を掲載しました.その中の主要なものに禅宗紀要があります.

仏教エスペランチスト連盟の創始者の一人である柴山全慶氏は日本における連盟の代表者であります.柴山氏は京都の禅宗の僧侶で,熱心に私たちのために働いて下さった.彼は1931年10月JBLEを結成し,機関誌「ラ・ルーモ・オリエンタ」を発刊しました.

雑誌「ブッディスモ」は18号まで出ました.私は親切な友人たちの協力で大きな成果を生んだこれらの年を回顧して,大戦後困難な幾年かを通して私たちの事業を続けて下さるわが同朋の人たちの成功を希望いたします.


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