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Informilo de JBLE, n-roj 73-76 (1960)

教界エスペラント運動茶話

柴山全慶
1

ザメンホフ博士が D-ro Esperantoなる匿名を以て「国際語」なるものを世に発表してから已に約70年の歳月が流れ,明治39年極東日本にその普及が緒についてから約50年の月日が流れた.今や多幸の明日を祝福されつつエスペラントの将来は輝かしい.私はここに仏教界に関係した普及運動の起伏や挿話を,自分の聞いた限り,肩のこらない茶話として書き連ねてみたいと思う.勿論異なった点,思い違いのことなどもあると思うが,御好意によって訂正していただきたい.この茶話が読者諸君に何等かの興味となったら望外の喜びです.

嘗て私は吾が国の仏教界(勿論僧俗を通じて)に於いてエスペラントの種子が落ちたのは何時何人によってであったかを調べたが,どうも時は明治38,9年頃,仏教学界の重鎮高楠順次郎氏であるらしい.

2

何事にもお鼻の高い有名な谷本冨博士も種々の意味で教界に所縁の深い方であるとするならば,直接エス運動に関係された噂は聞かないが,一言ふれるべきであろう.博士は明治34年(1901)南フランス地中海岸のモンペリエ大学に留学中,その地の新聞社長ガウリエという人に勧められてエス語を学習されたことがあったという.

学習者といえばもう一人忘れてならない人がある.元龍谷大学教授であった中井玄道氏で,明治37年(1904)頃,アメリカのシアトル市において The Student Complete Textbook, edited by J.G.Oconner で勉強せられたと云う.だから直接運動に手を下されなかったかも知れぬが深い理解者である.龍大エス会の花やかだった頃も,きっと氏の陰ながらの力添えがあったに相違ない.昭和6年JBLEの第1回大会が,京都で開かれた第19回日本エスペラント大会の前日,氏の経営していられた東山の仏教児童博物館を会場として開かれたので,子供のためのエス語学習書や絵本,その当時の貧しい仏教エス文献の展覧などにも大いに便宜を得た.

してみると,高楠博士の様に第一線に立って花々しい運動はされなかったが,日本のエスペラント運動草創にすでに教界から3人の先端的学習者を出しているわけである.日本で最初にエス語を研究した人が明治33年東大在学中の吉野作造氏であるとすると,谷本博士が明治34年,中井玄道氏が明治37年,高楠博士が明治38・9年頃ということで,仏教関係の学者が新しい言語にいかに敏感であったかが思われて痛快である.

聞くところによると,あの博物学者で名高い丘浅次郎博士が明治24年頃,発表されて間もないエスペラントをドイツ留学中に学習されたというから,日本人で最初の学習者は丘博士でないかと思っている.

兎に角,日本に於けるエス語運動は微々たるものながら明治39年頃から軌道にのったらしい.そしてこの頃は高楠博士や黒板勝美博士,文士の二葉亭四迷がその花形騎士であって,今日のエス運動の大御所小坂氏や千布氏は少壮組であったらしい.

高楠博士に次いで挙げるべき人は大阪外語教授浅井恵倫氏であろう.浅井教授は石川県の真宗大谷派の寺院出身で,大正11年(1922)学会のRO誌上に百喩経の一部をエス訳掲載し,翌年には同誌に蓮如上人の白骨の御文章をエス語訳掲載しておられる.が,氏が一体何時頃学習を始められたか知らないので,嘗て御本人に直接手紙を出して尋ねたが,外遊前に御多忙だったためか御返事をいただかないままに過ぎてしまった.しかしどうしても氏の東京帝大在学中であろうから,大正6年頃ではないかと思われる.

試みにエスペラント百科全書を開いてみる.まず氏の生年月日と大阪外語学校の言語学マレー語の教授であることが書いてある.次に1918年(大正7)東京帝大を卒業せられるに際し"Polineziaj popoloj kaj iliaj lingvoj"というエス語で書いた論文を提出されたところ,ある教授がEspは言語ではないと云ったにもかかわらず許容され,後には数名のものがこの例に習ったと云うことが書いてある.してみるとEspで卒業論文を書いた大学生は日本では浅井氏が最初ではないかと思う.今私は明確に記憶していないが(勿論この頃私はEspとは世界共通語の名だとより外には何の知識もなかったのだが)多分大阪朝日の天声人語欄ではなかったかと思う,「だれかが哲学の論文をEspで書いて出したそうだが,自然科学の文献ならいざ知らず,人間の意志感情を取り扱った論文を人工語で完全に表現できるか疑問だ」と云う意味のことが書いてあって,成る程尤もな説だと思ったことを微かに覚えているが,今は別の考えを持っている.或いは,この新聞の論説の原因は浅井氏の卒業論文ではなかったかと今考えられもする.(しかし東北帝大生とあったようにも記憶するし,浅井氏の論文は哲学関係でないから,或いは違うかも知れない)氏は又,現在の日本エスペラント学会の創設者(大正8年12月)の中の一人であり,大阪外国語学校に就職されてからは外語エス会を熱心に指導された.1935年5月25日,オランダ・アムステルダムのエス会主催で開かれた「日本の夕べ」に,滞在中の浅井氏が日本紹介の映画をエス語で説明された.研究に御多忙で直接仏教界のエス運動に働いて頂けないことは吾々の残念に思うところである.

以上が,大正10年大谷大学に花々しいエス語運動がおこる以前の教界関係の噂話である.大正10年以降は世界大戦後の国際的気分の余波を受けてか実に教界のエス運動も活発となり,真に黄金時代の感があった.それは別に稿を改めて書くことにしたい.

3

日本のエスペラント運動が漸く軌道にのって,日本エスペラント学会からその機関誌La Revuo Orientaが創刊されたのが大正9年(1920)である.越えて大正10年2月,小坂狷二氏の訳になる Perloj el la Orienta(四六版)が出版され,その第9-12頁に"La Budanasko"なる一文がある.材料そのものの問題は別として,直接仏教に関係のある文献でエス文になったものはこれが日本に於いては最初のものでないかと思う.(勿論La Esperanto 誌の中の高楠博士の署名あるエス文に就いて何か一言はあるであろうが)

何日頃だったか,またどんな様子であったかは聞いていないが,教界に重きをなす中外日報の小谷徳水氏は,大正10年頃京都三条のYMCAで八木日出雄氏(現岡山大学長)を講師として開催されたエスペラント講習会で受講されたと聞いている.中外日報が常にエス語運動に理解あり,エス語支持の旗色を鮮明にしているのも,仏青とエス語についても積極的な結合を主張する氏であるのも故ある哉である.

以上だけでも大正10年は仏教エス運動にとって何か因縁をもった年と思えるが,これだけではない更に輝かしい大谷大学エス会の誕生がある.

当時の大谷大学幹事(後に学監になられた)細川憲寿氏が世話人となって11月10日から19日まで10日間,毎日夜7時から9時まで,当時まだ三高の学生だった桜田一郎氏(京大教授理学博士)を講師として谷大での最初のエス語講習会が開かれた.このときの受講者は約20名と云われているが,終了後「大谷大学エスペラント会」が組織され,細川,神田,大和,伊藤,三谷,富樫,坂本,谷山などの諸氏がもっとも熱心な同志であった.この頃の事については,直接関係していない私などが霞の中のような話をするより,まだ現に活躍していられる方もあるのであるから,その方々から思い出話でも書いて頂いたら面白かろうと思う.

4

去る5月15日夕,京都エス連盟の例会で京都大学教授桜田一郎博士から,京都に於ける初期エス運動の思いで---と云った話を聞いたが,その中にこんなことを云っていられた.「大谷大学へ私が初等講習をgvidiに行った頃は急にエスペラント運動が隆盛になりかけた頃であって指導者が大変少なかった.講師を依頼する方でも学生ではいやがったのであるが,人がないので不承不承学生の私で我慢するというふうが見えた.」その日から歳月は流れて子供臭いといやがられた講師は今は博士になり大学の教授になられて,エス語運動も進んで,ヒゲのある年輩の講師もたくさんあり,講習書やエス語書籍も読み切れない程沢山になっている.JBLEの誕生前後から仏教エス界に登場している太宰不二丸氏も,確かに谷大エス会の初期に少しばかり講習を受けて其の後中断していたと云うように聞いている.後昭和5年(1930)11月の末,Scherer氏のエス語宣伝世界一周旅行の途上,京都市中央島津製作所の階上に於ける講演を聴きに出かけて,流暢なその講演を一学生が楽々と通訳するのを見て感あり,再びエス界に返り咲いたということであるが,一粒の種子が数年の後に健康な芽をスクスクと伸ばしたと云うべきであろう.

さて話は元に戻る.大正11年(1922)谷大エス会はその後堅実に伸びていった.第一回の初等講習を終わって僅か三ヶ月というに,この年2月に早 "La Paco"(谷大エス会機関誌)の第1号が謄写版印刷ではあるが出版されている.勿論今日から考えれば謄写版の技術もまずいし,中のエス文にも可成り言い分はあるけれど,エス語の社会的地位が今日とまるきり問題にならない程で,エス語に関する辞典も不便なら文献も少ない時代に,しかも初等講習を終わって僅か三ヶ月めの出現であることを思うと,如何に当時谷大エス会の人びとの熱誠が強かったかが思われて懐かしい.

而してこの谷大エス会が日本仏教界に於ける最初のエスペランチストのgrupoであると同時に"La Paco"が日本仏教エス界に於ける最初の出版物である点は,共に同大学エス会の大きい誇りであると思う."La Paco"はこの年のうちに第3号まで出され,逐号その面目を一新している.実に今日から考えても素晴らしいものである.同大学の泉哥環教授がエス語を学ばれたのも確かこの年のことではないかと思う.

"La Paco"のことを云い出すと何やら沢山あってきりがないように思われる."La Paco"はその後大正15年(1926)3月,血の出るような苦心の後第10号を出しているが,終始一貫全精力を挙げて働いて来た谷山弘蔵氏の谷大卒業と共に淋しくも一時休刊の止むなきにいたった.だがこの"La Paco"にはいろいろなエピソードがあるから,何かの場合谷山氏や池浦氏等から直接に聞いたら興味深いと思う.(これについては"La Lumo Orienta"Jaro 4, p.14-15に出ている両氏の記事を見ていただきたい.また谷大エス会に残っている第10号発行の苦心の日記を読んでみるなら誰でも涙なしにはいられないと思う.:浅野註)

確か大正14年頃のことでないかと思うが,時の谷大学長佐々木同樵氏が外遊の折パリのソルボンヌ大学を訪問されたとき,「貴下の大学のエスペラント会からこの"La Paco"という雑誌が出ていますね」と示され,思わぬところで自分の大学から出ているものを見せられてビックリされたということも聞いている.

事があまり小さいことになり過ぎるが,私自身にもこのPacoに就いて忘れられぬことがある.茶話だから許してもらってついでに書いてみよう.昭和5年(1930)12月10日と日記に記入されている.私は英国から突然一通の手紙を受け取った.それは私の今まで名も知らなかったs-ro Geo H.Yoxonなる人であった(これはBLEのヤクソンその人で此の時から二人の交渉が始まる).この手紙では,"The Buddhism in England"誌の編集長s-ro A.C.Marchから貴下のアドレーソと貴下の訳書「十牛図」をもらったので....という書き出しで,自分は今世界仏教エスペランチストの会を組織したいと思っているから貴下も共働してもらいたい,それについてそのOrganoとして貴下の方で"La Paco"という雑誌が出ている筈だから利用したいが今も続いて出ているか,それは国際的の目的を持ったものかどうか....等と聞いていた.

勿論自分はこの時には"La Paco"に就いては何も知らなかったのでその旨を返事して,まだ現在の情勢では世界の仏教エス会組織は時期尚早であろう,と書き添えておいた.所が折り返して来た返事には,"La Paco"は京都市烏丸の大谷大学エスペラント会から出版されているOrganoである,自分は独自の方法で組織するから共働してもらいたいというて来た.BLEは斯くしてその緒についたのである.さて私は早速大谷大学へ照会してみると,La Pacoは目下休刊され,エス会も近年中断されているという淋しい返事であった.

5

しかしこのときから,わたしは,二つの念願を心中にいだくようになった.一つは初期仏教エス運動の資料をできるだけ蒐集しておきたいこと.もう一つは仏教の都である京都市にせめて数人でもよい,仏教徒のエス会を持ちたいということであった.何はともあれ,このPacoが機縁となって,JBLEが生まれる下地が得られたとも云える事が,実に不思議の因縁と云うべきであろう.

もう一つ,この谷大エス会のOrganoに"La Paco"とはなんと云う好ましい文字を見つけたものであろうか,と実に感心している次第であるが,宗教的哲学的または倫理的に見ないで,特にこの「平和」という題がその当時のエスペランチストの頭に上ったととうことは,有意識か無意識かに時代的の色彩が含まれていはしないかしら?とも見られないであろうか.国家主義の盛んな今日とは反対に,欧州大戦の後を受け世界は平和の克復に歓喜し,国際協調の風潮は全世界に漲っていた.而して大部分のエスペランチスト達は同じ様に「内的思想」を尊重し,Grandaharmonio;Monda familio;Homaranismo;Internacia frateco ktp.に一生懸命だった時代の風潮が,それとなくこの標題"La Paco"に感じられる様に思われてならぬ.目下全世界の状勢が対蹠的なだけ一層時代的な感じが深いのであろうか.

6

私個人のエスペラント生活に於ても種々の関係や思い出の多い龍谷大学エス会は,1922年(大正11,谷大エス会誕生の翌年)の誕生である.確か5月頃,瓜生津隆雄氏(元龍大教授)が主催で,八木日出雄氏を講師として第1回初等講習会が開催され,続いて瓜生津氏が輪読会を開き,大変な好評を博したのに始まると聞いている.しかしこの龍大エス会生みの親である瓜生津氏についてはその後何も聞いていない(勿論詳細な史実的物語なら龍大エス会生え抜きの人たちが書かれるのが当を得ている).

かくて龍大エス会は毎年初等講習に続いて輪読会を持ち,新しい同志の増加に努め,谷大エス会程の花々しさはなかったが,仏教関係大学内エス会の両大関の一方として相当がっちりと進展していった.而してこの両大学のエス会は益々質的にも進歩していき,其後両会の有志が時折研究的な会合を持ち,仏教エス辞典の編纂が企てられ,仏教辞典によって数語宛をエス訳し始めたことがあると聞いている.その事業はたとえ未完成の侭で立ち消えとなったにしても,その当時の原稿なりカードの一部が今もどこかに残っていそうなものだのにと私は見たくてたまらない.

谷大エス会のPacoが初等講習数カ月にして現れたに対して,龍大エス会の機関誌"La Sankta Talio"は第1回の初等講習から4年目の1925年(大正14)10月に当時学生だった稲田昇連氏(現在真田氏)の編集で創刊されている.この月に谷大エス会では已に"La Paco",Jaro4,n-ro9 が発刊されている.

仏教連盟が生れる直接の機縁となった点からはPacoは私のEsp-Vivoには所縁の深いものであるが,その他の点では私には龍大エス会の方が何かと思い出が多いし,時間的にもSankta Tilioの方を早く手にしていた.それはちょうどその頃私がエスペラントを独修しはじめ,学会のRevuo Orienta誌を購読し始めた頃であったが,ある日フトR.O.誌上でSankta Tilioの発刊を歓迎した紹介文が目についた時,どんなものかなあ,といった好奇心半分に手にしてみたくなり,自分の知り合いの龍大生(藤井宗樹君)に依頼して一部頂いて来てもらったのである.(勿論この時すでに9号まで出している谷大のPacoについてはどういう理由からか何事も知らなかった)今日各地方会から沢山に出る謄写技術の進んだ美麗なものに比べると実に幼稚な素人技術で,汚く読みにくい上に,私の怪しいエス語とまだふらついているエス語への熱心さ程度では十分その頁から頁を読まないでしまったように思っている.しかし考えてみると,その頃ではあれを出すこと自身非常な苦心であったろう.だからこそR.O.誌も相当好意的な紹介をしたものに相違ない.こんなところにも,エス語運動ははや隔世の感がある程進展したものだと思う.今日であったら相当手厳しい批判を受けるであろうのに.

このSankata Tilio第1号の出た大正14年(1925)の5月であったか,龍大の開校記念日にエス語展覧会を開催して内外に好評を博したということを聞いている.私がエスペラントの展覧会なるものを見たのは,南昌吉君に引っ張り出されて龍大のそれを見たのが最初であるが,それが一体この展覧会だったか,或いはこれより1回も2回も後のものだったか,今どうも分明に記憶していないのである.がよくもこれだけ雑誌類やkorespondaĵojを集めたものだと感心したことを覚えている.とはいえ僅か十年足らず前の事だのに,エス語の書籍類は実に貧弱なものであった.今日のエス語展覧会がポスターや観光案内記等いかに実用されているかという方面と,立派な書籍類とが主点であるのに比較して,エスペラントの横へ量的伸張もすることから竪へ質的発展のいかに目覚ましいものがあるかと実に感慨に堪えない.

それから私のEsp-Vivoに今日猶深い交わりのある稲田氏にはじめてあったのも何時であったか,兎に角龍大エス語展覧会を訪れた時に南君に紹介されたのがそれでなかったかしらと考えられている.それが因縁となって,昭和3,4年頃であったか,私がkorespondaĵoとしてでも好いから小さい仏教文献が欲しくなって,野原休一という人(その頃私はまだ野原氏と知り合っていなかった)が阿弥陀経のエス語訳原稿ができているということを知って,それが出版したくなり,まず稲田氏に相談を持ちかけたことがある.と,その頃もう研究科に在学していた藤原三千丸氏(現在浅野三智氏)と共に私の宅を訪問して来られいろいろ相談したことがあった.もっとも二人とも龍大の英文科の人であったから(浅野註:英文科は稲田氏だけ),私の隣に住んでいた英文学の教授寿岳文章氏を訪ねる用事もあったらしいけど.その時の相談は結局東京の学会へ問い合わせてからということになってそれ以上具体的にならなかったが,問い合わせの結果,野原氏の阿弥陀経は学会から出版される予定と云うので立ち消えとなったのであった.藤原氏は浅野と改姓されて四国に行かれたせいもあろうが,その後手紙や原稿以外にお目にかかる機会がない.稲田氏は,そのまま氏の卒業とともに一時音信さえ不通になっていたのに,偶然,実に偶然,昭和6年(1931)4月,京都大本支部のエス語展覧会場で太宰氏とともに出会い,JBLE創立の発起者として相談した.この龍大卒業の両氏が共に今猶エス語への熱情を失わずに活躍されていることは何という力強さであろうか.このほかに稲田氏と同期の龍大卒業でドイツに留学,帰朝後一時谷大講師を勤められていた花田信之氏(現在九州鎮西女子学園長)も学生当時はGvidantoとして活躍されていた.

7

次に秋山文陽氏の運動について書いてみたい.私は秋山氏には昭和6年5月11日の晩,高倉会館で初めて仏教エス会創立の発起人会のような会合を催した時,思いがけなく出席されてお目にかかったのが最初である.そんなわけでその会合にも案内はしてなかったが確か中外日報の記事でその催しを知り,御参加になったらしい.席上自己紹介のついでに各自エス語に関する自己の経歴や感想を述べあった時,秋山氏の花々しい過去の運動歴を聞いて,一同がその豪華に目を輝かし,これほどのエス陣営の勇士が京都に在住せられているのを吾々がどうして知らなかったかと驚いたものだった.その時以来ずっと熱心な一同志として親しみあい共働しあっている間柄である.従って秋山氏に関する運動茶話は勿論御本人から書いていただくのが一番好いのであるが,なかなか書いて頂けないので自分が聞き知っているだけを書いてみることにした.

氏は嘗て語られた.1922年(大正11)より翌年にかけて成人講座の趣意から,東京本郷壱岐殿上宮教会に於いて,文化自由講座の名の下に,宗教哲学,社会学,自然科学等の諸科に亘っての講座を開設主催したが,その中に語学講座として最初に川原次吉郎教授を聘し,エスペラント語科を加えたのがそもそものはじまりであった.その講座は勿論選択は自由であったが,主催者の意外としたのはエス語科の志望者が30余名の多数であったことで,それよりエス語に興味を覚えついに研究と宣伝とにマニアとなり,後エス語科を独立して日本エスペラント学院の看板を掲げ,爾来一講習大概週3回3ヶ月を期間として,10回の講習を主催し約500名の講習生を養成したのである.さて上宮教会のごときは1回4円の会場費を支弁し,中央会館のごときは1回50円の会館費を支弁し,各講師には1時間約2円宛の報酬を支弁し,1回10円ないし15円の新聞広告を支弁しつつ,加うるに市内各所に立て看板ポスターを掲げ,ビラ撒き等の労働にまで自ら従事したのである---と.

しかし,今日でさえエス運動をして得のあった試しはないのに,まして大正末期に物質的にいつまでも堪えられるはずはない.毎々会を催す度に消える経済上の少なからぬ犠牲と多大な労働のために,ついに中止の止むなきに至ったらしい.とはいえかかる大講習会を10回までも重ねられた氏の努力はまことに驚嘆の外はないであろう.

一体当時の同志は一様にホマラニスモの熱情に終止していたし,特に氏の仏教への奉仕と信念とに動かされての崇高な心情は,今日吾々が聞いても胸の熱する思いがある.あの高倉会館の暗い電燈の下で,今まで名も知らなかった人から思いもかけぬ実話を聞いて,不思議な位の感情に浸ったと同時に,埋もれていた勇士を見つけた私の喜びは実に大きいものだった.

試みにRO誌の第4年(大正12年度)第1号の内地報道欄に,川原次吉郎氏の講習は日本エスペラント学院に於て始められ約50名の講習生を得たとある.同年第2号の同欄には,日本エスペラント学院に於ての新講習会が報ぜられている.特に第6号の同欄には,日本エス学院の主催者秋山氏の新講習が開かれその第一日に開催された日本中央仏教会館に於ける特別大講演会が大々的に報じられている.また同号の「委員より」の頁には,学院は献身的なる普及者秋山氏が私財を抛って経営せられている講習会で,近く「日本エスペラント」というエスペラント主義鼓吹の小雑誌発行の計画がある,まだ発行の運びに至らぬようであるが,エス語普及のため吾々はその出現の一日も早からんことを祈っている,という記事が出ている.12月号同欄には.11月13日より秋山氏指導にて新講習が設けられた旨が出ている.翌大正13年1月号の内地消息欄には「La kurson donatan de s-ro Akijama partoprenas 62 personoj spite de la malfacileco post kataklismo」と出ている.あの東京大震火災の直後にでもこの勢いであったのは,何か時代の力とはいえ今昔の感に...というところである.

嘗て氏は語られた.諸講習中第4回の中央仏教会館に於ける大講習会開催にあたっては駒沢大学の滑谷学長,当時豊山大学の加藤精神学長,天台宗大学の末広昭容学長,宗教大学の望月信亭学長,東洋大学の境野黄洋学長,立正大学の馬田部長等の,各宗大学学長を親しく歴訪して大いにエス語の功徳を宣伝し,講習生の派遣方を要請したのである.ために東洋大学の48名を筆頭に各大学より数名宛の志望者を派遣された.現大正大学の田島隆純教授の如きもその当時の講習生であった.加藤精神学長も親しく来聴して下さった.また本郷明治大学の隣,当時の光明講壇に於ける第5回の講習会の時には,今は故人となられたが天台宗大学長末広昭容氏が終始一貫2ヶ月の講習に通われたのは最も珍とするに足るものであって,蓋し学長級の人にしてエス語学習の嚆矢であろう...と,実に当時の秋山氏の熱心さと「時」なるものの恵まれが分明に感ぜらるるではないか.

氏はまた語られた.然るに突如として大正12年9月1日に帝都は一代震火災に見舞われ,一切の文化施設も一朝にして破壊し去られてしまった.云うまでもなく吾がエス学院の学習用具も悉く鳥有に帰し,エス語運動の如きも消し飛んでしまったと信じていたものである.然るに豈図らんや震災直後未だ焔も冷めやらぬ10月というに,無謀にも第6回の講習会を東洋大学に於て開催を企て,講習生の如き1名もなきやも知れぬと予期しつつ東京日々新聞のよろず欄に,簡単な僅か2回の広告をしたのみであるのに60名にあまる講習生を得たことは,前後を通じて最も珍とするに足るところで,主催者たる自分もその意外な成績に欣喜したものである.猶この時ばかりは僅少の労力にもかかわらず前後通じて初めて経済上にも少なからぬ余力を得たものである,と.

しかし今日のごとくエス書籍も沢山あり,質的に高いエスペランチストの多い時ですら恵まれぬのがエス語運動であるのに,いかに時の波とはいえ,こうした地味な私的文化運動が一人の手にいつまでも支えられよう筈はなかった.が十回を数えられた講習会の思いでは,今静かに京都深草の地に過ごされる氏の胸にいつも輝かしい光を与えるであろう.氏が後に宗派関係の光山学院なる私立学校において静養の傍ら随意科としてエス語を講ぜられたことも,止みがたいエス語への熱情の滴りであったろう.(了)


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