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Informilo de JBLE, n-roj 32 (1955)

日本に於ける仏教エスペラント運動小史

浅野三智

日本エスペランチストの組織的な運動は,1906(明治39)年6月,東京に日本エスペラント協会が設立された年に始まると見てよい.この運動は黒板博士を中心として起こされたものであるが,仏教界の重鎮高楠順次郎博士がその当初から参加せられていたことは注目に値する.博士はその年9月に開かれた第1回の大会に列席して決議文を説明されている.また翌年3月には協会の機関誌「日本エスペランチスト」に Nia Dankeco al Indio (印度への感謝)という題でエス文の短編を書かれている.しかしこの協会の運動は明治の末期から大正初期にかけて暗黒時代といわれるほど不振な状態に陥っている.この間は仏教界にも表面に立って活躍した人は無いようである.

1915(大正4)年,浅井恵倫氏は東大文科在学中,小坂狷二氏らと(以下数行にわたってページ破損のため判読不能:編集部) 仏教運動にエスペラントが初めて採用されたのは1925(大正11)年の秋東京で開かれた東亜仏教大会であろう.すなわち大会の教義宣伝部で「仏教教義を英独仏三ヶ国語及びエスペラントによって世界に宣布する必要」を加藤吐堂氏より提案され,また仏教に関する各種教科書の完成計画の中に仏教エスペラント読本も含まれていた.しかし遺憾にもこの計画は実行に移されなかった.その原因は資金のなかったことにもよるであろうが,大会に集まられた教界諸名士の中に,真のエスペラント精神の理解者がなかったためではなかろうか.後に栗飯原晋氏がこれを評して「宗教者たるものは単に国際共通語の便利のみを見ずに,エスペラントの持つ内的精神をしっかりと見つめこれを掴んでほしい」といわれてあるのはまことに適評であると思う.

この点では,この時期に京都と九州で起こった若い仏教徒の運動はよくエスペラント精神を把握した実動的な根強いものであった.京都に起こったものには京大の学生だった八木日出雄氏の存在を見のがすことはできない.八木氏は1922(大正8)年三高在学中,学内にエスペラント会を起こし,機関誌 La Libero を創刊した.この三高エスペラント会は一・二年の間に急速な発展をなし,この運動が市の内外の学校に大きな影響を与えたのである.大谷大学・龍谷大学と相次いでエス語講習会が開かれ,両大学ともに学内エスペラント会が成立した.

大谷大学では谷山弘蔵氏が中心となり,大正11年2月 La Paco を創刊した.この機関誌は大正15年3月までに10号を重ねている.阿弥陀経,四十二章経などのエス訳が試みられている.龍谷大学では瓜生津隆雄氏が草分けをなし,中井玄道教授を会長に仰いで,真田昇連氏(旧姓稲田)が推進して年々初等講習を開いて逐次会員を得,大正14年10月機関誌 La Sankta Tilio を発刊した.これは昭和4年3月までに6号をだしている.エス訳歎異鈔や親鸞伝などが載っている.仏教済世軍は真田増丸師の主管する純信仰団体であるが,仏教伝道にエスペラントを採用し,中西義雄・豊島竜象両氏が中心となって大正14年4月「仏教済世軍エスペラント号」を出し,8月までに5号を重ねた.中西氏はまた盲人上田順三氏と共に点字済世軍エスペラント欄を出している.さらに中西・豊島両氏は同年10月から雑誌 La Lumo Senbara (無礙光)を発刊した.

こうして仏教エスペラント運動は,京都の仏教関係学校及び新しい仏教教化団体の各グループで次第に醸成されていったが,1931(昭和6)年ついに総合的な運動として結合された.その年5月1日京都において,柴山全慶,太宰不二丸,真田昇連諸氏が発起人となり,日本仏教徒エスペランチスト連盟結成についての会合が催されて次の決議がなされた.

1)各宗派的色彩を超越して,全仏教徒としての立場を失わないこと.
2)毎月1回会合を催し年4回の小冊子を刊行すること.
3)JBLEの名のもとに各種の仏教エス運動をなすこと.
4)国内仏教エスペラント運動の中心となり,英国のBLEと連絡をとること.

こうして日本仏教徒エスペランチスト連盟は発足し,10月第1回の日本仏教徒エスペランチスト大会が,京都東山真葛原の仏教児童博物館において開催された.

1930年に存在する国際的なエスペラント宗教雑誌は,

キリスト教 4     神学関係 1
大本教 2       バハイ教 1

以上8種で仏教関係のものは皆無であったが,翌31年には英国からLa Buddhismo が創刊され,ついで日本の連盟からLa Lumo Orienta が発刊されて仏教のために気を吐いた.

La Lumo Orienta は,1931年12月創刊号をだし,32年に4冊,33年に3冊,34年に4冊,35年に3冊,36年に3冊と,ほぼ確実に刊行され,1937年に1冊を刊行して時代の重圧のために休刊している.100名内外の少数の会員で7年間に通算19号の冊子を世に送ったことは,中心となられた方の大きな労苦が払われたことを思うのである.今これを通じて主な執筆者とその業績をあげると,次のごとくである.

野原休一氏 法華経薬草喩品・化城喩品
南昌世氏  雑宝蔵経
真田昇連氏 百喩経
亘至道氏  浄土論
高石綱氏  聖徳太子十七条憲法
柴山全慶氏 仏と法
太宰不二丸氏 真宗小史

この他に柴山氏は,松原致遠,吉田弦次郎,(判読不明),江部鴨村,倉田百三諸氏の小品を訳載し,金松賢諒氏は鈴木ベアトリス氏の論説を訳載している.

JBLEはこの機関誌を発行すると共に,一方重要なエスペラント文献を数種刊行している.即ち,

1)La Samanta-Mukha Parivarta 法華経普門品,野原休一訳
2)La Parabolo de la Urbo Magie Farita 法華経化城喩品,野原休一訳
3)La Kodo de Kronprinco Ŝootoku 聖徳太子憲法,高石綱訳
4)La Psalmo de Ĝusta Kredo 正信偈,河野誠恵訳
5)La Admono kaj Vivo de Reĝo Aŝoko アショカ王の法話と小伝,岡崎霊夢訳

この期間京都における仏教関係諸学校のエス語運動が極めて活発になったこともまた,JBLEの活動にあずかって力があったであろう.

まず臨済宗大学では,柴山教授を中心に対本愛道,山田義秀氏等の幹部の熱心な活動によって講習研究が続けられ,1934年3月には優秀な機関誌La Voĉo 「声」の創刊を見た.大谷大学では1926年 La Paco 第10号を出して中絶していたが,太宰不二丸氏を中心に金松賢諒氏等の努力で34年に復活し,写真を入れた印刷本として36年9月までに15号をだしている.

龍谷大学では稲田(真田)氏は中井玄道氏を館長とする仏教児童博物館にあって広く世界のエスペランチストから資料を集めつつあったが,母校龍大の学内エスペラント会に絶えず指導を続け,山本胤道,早川克長氏等エネルギッシュな人たちの努力で La Sankta Tilio 7・8号が続刊された.

この活動はまた東京にも及び,大正大学で1932(昭和7)年5月,学内で宣伝後援会を開いている(JBLEについて-竹内藤吉,国際補助語の必要-丘浅次郎,仏教とエスペラント-友松圓諦).

これら学校関係のエスペラントグループの復興と共に寺院を中心とする運動が始まっていることが注目される.

大阪の真保氏は教願寺日曜学校において男女青年のためにエスペラント学級を設けた.岸和田市の西田亮哉氏は西方寺から「(判読不明)」と名付ける機関誌を出した.姫路の藤谷勲氏はその住する法苑寺に栗山エスペラント学院を開き機関誌をだしている.

ここで時代をもとにかえして,東京に秋山文陽氏の運動があったことを述べなくてはならない.氏は1922(大正11)年,東京本郷の上宮教会に文化自由講座の名で,宗教哲学,社会学,自然科学などの講座を開いたが,その中に語学講座としてエスペラント語科を,加之川原次吉郎教授を講師に依頼した.このエス語科は非常に盛況で,30余名の志望者があったため,後に独立して日本エスペラント学院と呼称し,約500名にのぼる講習生を養成したという.

1930年ホノルルで開かれた第1回汎大平洋仏青大会に「エスペラント語を仏教青年運動に採用するの件」が提案されて可決された.第2回大会はそれから4年後の1934年7月東京で開かれ,北米・ハワイ・カナダ・満州・シャム・インド・セイロン・中国・日本から代表者が参加して行われた.この大会の用語は第1回大会の決議を活かして,日本語・英語・中国語にエスペラントを加えて4種とされていたが,大会数日前この規定は変更されて,用語は日本語・英語・中国語の3種とし,この3カ国語のいずれをも解せないものはエスペラント語を用いてもよいとなったので,実際はエス語は用いられなかった.

しかしこの大会を機とする大きな成功は,日本エスペラント学会の機関誌 La Revuo Orienta が7月号全頁を挙げて仏教特集号となしたことである.これは,JBLEの結成以来絶えずその動きが学会に報告され,浅野研真氏や中西義雄氏等のエスペランチストが仏青幹部にあって連絡をとられたことや,学会の岡本好次氏が非常に好意を持って下さったことなどがこの成功を生んだのである.(以下 RO の目次が掲げられているが省略する:編集部)殊に柴山氏の「仏教関係のエスペランタージョ」は貴重な資料である.

 仏陀のエス語根を Budh とすべきか Buda とすべきかがこの当時盛んに論議されたが結末はつかず現在でも両者が用いられている.大会の前夜,学会の岡本好次氏と石川県の竹内藤吉氏は各国代表者中の有力者をその宿舎にとい,エス語に関する意見を問い,「英語書きエス御小文法及語集」及び竹内氏の自著「パーリ語エス語仏教語辞典」を寄贈して帰った.

JBLEは1937(昭和12)年3月,La Lumo Orienta 7巻1号を出しこれが終刊号となっている.別に誌上で解散の宣言はしなかったが,その年8月に出た会報第23号には,「会員諸氏へ」と題して次のごとく書かれている.

「昭和6年5月エスペラントを以て,東洋の至宝仏教を全世界のエスペランチストを通じて宣布したいという念願のもとに,京都の同志が仏教エスペランチストの共働を提唱して以来満六年以上にもなった.時代は急角度に転回して欧州大戦後世界を風靡した国際親善の思潮は次第に消え去り,国家と国家・民族と民族・思想と思想がはげしく相克するありさまとなった.この人類にとっての不幸がいかなる樹根から生じているかについては様々の意見があるであろうが,しかし眼前の事実は一時「文化」の諸意圖を顧みている余裕のない,いわゆる非常時の状態であること一つである.かかる時代に文化の一役割であるエス語運動が花やかでないのは当然の成行きである.吾々は,前述のような相克が解消して再び人々が「文化」を顧みる落ち着いた生活を持つ日まで,あらゆる困難と戦って定められた目的に進んできた道ではあるが,一時積極的な行事は中止して退いて自己の余力をたくわえることにしたいと思う.仏教エス語運動史の上に少なからぬ足跡を記してきたのをせめてものよろこびとして,しばらく隠退しよう.世界は動く.やがて遠からず「文化」に恵まれる日があるであろう.その日こそ更に手を取り合って人類のために自分たちの使命に奉仕しよう.」

運動の中軸をなした人たちがせっかくここまで推し進めてきた聖業から退かねばならなかった心事がハッキリと伺われる.かくして日本仏教エスペラント運動は個人的なものを除いて統一的な運動は全く休止の形となってしまった.

大戦初期に現れた仏教エス文献には,先ず岸和田市の西田亮哉氏のLa Vivo de Sankta Honen(法然聖人伝) がある.法然聖人の生誕800年記念として石井真峰氏が著わされた英文 A short life of Honen のエス訳である.次に仏典とは言えないが仏教資料が豊富に含まれている「日本書記」のエス訳がある.東洋古典をエスペラントで世界に紹介しようという野原休一氏の事業の一つで,第1編は昭和10年9月に,第2編は昭和11年10月に,第3編は昭和12年11月に,第4編は昭和13年10月に,第5編は昭和14年9月に出版されて全巻完結した.野原氏はこの功績で第1回小坂賞を得られた.

昭和13・14年とつづいて前途有為の仏教徒エスペランチストを失った.その一人は小樽市の岡崎霊夢氏であり,もう一人は全日本仏教青年会連盟理事であった浅野研真氏である.岡崎氏はさきに掲げたアショカ王法語の訳者で大谷大学に学び,病気のため中退し,小樽量徳寺に住して小樽仏教エス会会長として活躍せられたが,昭和13年7月17日病歿した.35歳であった.浅野研真氏は大正12年3月日本大学文学部社会科を卒業し,昭和3年7月渡欧,5年までパリ大学文科に在籍,12年7月にはタイ国へ仏教使節として渡航した.自著「仏教社会学研究」の一生「仏教社会学の基礎概念」をエス訳して出版した Fundamentaj Konceptoj de Budaisma Sociologio がある.昭和14年7月7日歿,42歳であった.

戦後の歩み

1937年3月JBLEが活動休止の宣言をしてから,JBLEには空白の時代が約10年続いた.戦後欧州の仏教徒エスペランチストはBLEの再建に努力し,スウェーデンのペトリ氏を会長に推し,1948年機関誌 "La Darmo"n-ro19 を刊行した(この号数は戦前の"La Budhismo"に続くものである).ペトリ氏は雑誌ヘロルドを通じて世界に呼びかけたが,この記事によって日本で最初にペトリ氏と交渉を持った人は,富山県の野村理兵衛氏であった.次いで石川県の竹内藤吉氏や京都の柴山全慶氏や太宰不二丸氏等,戦前活躍された人たちが再生のBLEと関係を持ち,太宰氏は戦前日本の連盟から出版されたエス語仏教書数種をペトリ氏に送り,また中外日報誌にペトリ氏並びにその運動を紹介された.宮崎県の河野誠恵氏もペトリ氏と文通せられ,その最初の手紙を,氏の所属していられる宗派の新聞「本願寺新聞」(1950,9月)に訳載せられた.戦後全くエス語を放棄していた筆者が再びこの運動に復帰したのはこの記事によってであった.筆者は1950年12月に初めてペトリ氏から手紙を受け,翌年2月"La Budha Lumo"n-ro25(この号から La Darmo から改題)を受け取った.その年の5月からBLEの日本代表を委嘱され,国内の会員名簿を送られたが,その時日本のBLE会員は15名であった.しかしこの中の約半数は英語の文通者であった.BLEとは別に国内の仏教徒エスペランチストの状況を知る必要があったので,6月BLEとJBLEと両方のインフォルミーロを合して刷り,太宰氏と相談の上,旧JBLE会員全部に発送した.しかし休刊10年にもなるので,住居不明で返送されるものも大分あった.

その年の秋の日本エスペラント大会は名古屋であったが,山田義秀氏がアレンジされて久しぶりで仏教分科会を開き,JBLE再建のことが決議された.爾来年々大会ごとに仏教分科会を開いている.

日本の会費を現金で欧州に送ることができず,また機関誌発行が欧州だけでは発行し難い現状にあるので,1952年度から夏季号と冬季号を日本で発行することとなった.この年7月,エミネンタエスペランチストでありBLE会員であった浅田一博士が逝去された.浅田博士は病中であったが常に欧州のBLEの幹部たちに手紙を送って激励しておられた.

1952年の秋,東京で開かれた第2回世界仏教徒会議にエスペラントを公用語の一つとし,欧州の仏教徒エスペランチストをこれに参加せしめよう,ということが私たちの願望であったが,ついにそれは成功に至らなかった.しかしそれは現状に於いては当然のことであった.この会議に出席してみて,私たちはまだまだ年をかけて実力を養わなくてはならないことがわかった.


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