ヨーロッパで仏教に関する記事がはじめてエスペラントで雑誌の上に現れたのは、1924年(大正15年)で、ロンドンのクリスマス・ハンフレーズ師の主宰する「英国仏教」の誌上であった。これはその当時この雑誌の編集者であったマーチ氏とラトヴィアのグロー氏が協力して原稿を書いて掲載したものであった。それから毎号エスペラントの頁が設けられた。もっとも日本では既に大谷大学のエスペラント会が活発に動き、機関誌"La Paco"をヨーロッパのエスペランチストの送っていたから、これに感銘を受けたエスペランチストもいくらかあったと思われる。「英国仏教」に掲載せられた仏教記事に感動して立ち上がったのが、北ウェールズに住む若きエスペランチストGeo H. Yoxonその人であった。
ヨクソン氏の仏教入信の動機が何であったかははっきり分からないが、氏は第一次世界大戦後、無神論におちいっていた。しかし「英国仏教」の論説に接した時に、自分を不幸な無神論者と呼び、長い眠りから醒めたように欣喜して仏教に帰依した。これを見ると、ヨクソン氏のそれまでの悩みは深く、また仏教の持つ時代を越えた迫力の強さを思わなくてはならない。ヨクソン氏は苦しい生活の中から手刷りの印刷機を購入し自ら印刷して機関誌を何十カ国のエスペランチストに送り始めた。
ヨクソン氏の発行した機関誌は1931年から1936年までに18号を数える。その内容の主なものを挙げると次のごとくである。
この他毎号「編集者のことば」があり、新刊紹介の欄を設けている。小粒の雑誌ながら親切な編集ぶりである。
昭和49年柴山全慶老師が亡くなられた際、老師のお写真を同封して手紙を出した時、次のような返信があった。
「柴山さんのお写真を送って下さってありがとうございました。もう40年も前に、柴山さん自身から送って下さった写真を数枚、今も保存しています。しかしこの最後の写真を送って下さったことはたいへんありがたいです。」
その翌年受け取った手紙には、若い頃大宰不二丸氏や稲田連氏などと文通していた往時を回想し、最後に「あなたは現在73歳であり、私は77歳になります。共に年をとりました。現在まで尊い仏教エスペラントの運動が続けられてきたことはうれしいことですが、もっと若い人がこの運動に参加して、生き生きとした活動がなされることが切に望まれます」と書いている。
ヨクソン氏の畢生の事業はパーリ長部経典34経のエス訳であったと思う。昭和34年5月に寄せられた手紙に、次のような胸に迫ることばが読まれる。
「私は約一年前にパーリ長部経典34経のエスペラント訳を終えました。私にとってこの訳は訳したというより築き上げられたというほうがピッタリします。私は以前印刷機を持っていましたが、年をとったのでこの機械は他の一般グループに譲りました。このパーリ聖典をどうして出版するかに迷っています。もし私が死んだ後に、私の息子たちはこの原稿を反故同然に扱って、破棄してしまいはしないかと、心配しています。」
と書かれてあった。
私はこの返事に、
「今すぐというわけにはいかぬが、日本に送って下されば、或いは出版の時期が来るかも知れません」と書いたように思う。やがてヨクソン氏からその原稿を送られた。
私はヨクソン氏の承諾を得て、先ずJBLEの機関誌"La Japana Budhano"に少し宛掲載していった。現在掲載済みのものは次の11経である。(経典のタイトルは省略:山口)
ヨクソン氏生前中にこの書を出版し得なかったことは相済まないことに思っている。
(浅野三智)