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袴谷憲昭『法然と明恵 日本仏教思想史序説』

山口 真一

袴谷憲昭『批判仏教』『本覚思想批判』,松本史郎『縁起と空 如来蔵思想批判』『禅仏教の批判的研究』,伊藤隆寿『中国仏教の批判的研究』,ジョアキン・モンテイロ『天皇制仏教批判』...

上に挙げた書名から何かお気づきですか?そう,すべて「批判」の字が入っています.わたしは密かに,上記の仏教学の諸先生を「批判仏教学派」と名付けています.それは,「正しい仏教とは,明確な論理的判断によって言葉を用いて主張されるところの批判哲学である」を共通の立場としていることに因むものです.批判仏教(kritika budhismo)のキーワードは,「縁起」「知性」「智慧」「分析」「信仰」「真実」等々で,土着思想を取込み(あるいは取込まれ)「真如」「体験」「禅定」「直観」「承認」「事実」をキーワードとする場所的仏教(topika budhismo)に対立します.この観点から一貫して批判の対象となるのが「本覚思想」あるいは「如来蔵思想」というわけです.

「本覚思想は仏教ではない」と言い切る袴谷氏らの所論は綿密かつ論理的であり,これに対する有効な反論をわたしは見い出していません.しかし現実はといえば,本覚思想にぬりこめられた日本仏教は,批判をものともせず(要するに無視して)主流派を形成しています.批判仏教の側がいくら「それは異端である,仏教の正しい教説に反する.」と力説したところで,本覚思想をこととする主流派の基本は「これが日本仏教の事実である.既に根付いているものを批判したところでしかたない.」となってしまいます.

本書において取り上げられる二人の仏教者は,袴谷氏の所論に従えば,単に鎌倉新仏教と旧仏教の代表者というだけではなく,前者が本覚思想の批判者として現れた時に,後者がその偏執ぶりを批判しかえし,法然浄土教はけっきょく一部を除いて体制側に屈服していくわけです.ここで重要なことは,どちらが仏教として正統であり異端であるか,です.袴谷氏は,本覚思想が「自力主義/差別主義/事実主義/包括主義」であることにより異端であり,法然の二種深信が「他力主義/平等主義/論理主義/排他主義」であることにより仏教の正統の立場を受け継ぐものと結論しています.日本仏教史を少し学んだことのある方には,まったく意外な結論でしょうか?私自身,曹洞宗系の学者の方が法然を支持するとは意外でした.しかし,袴谷氏の論理の立て方からすれば,じつは必然的な帰結であったのです.

ただ,正統と異端に関していえば,法然浄土教において立てられる絶対他者としての阿弥陀仏はいかなる論理で正統といえるのか,などいくつかの点で明確な説得力をもっていないという印象がありました.

本覚思想批判は,今あちらこちらで話題になっているようです.重要な問題提起であるだけに,今後の論議の成りゆきに注目したいものです.

本書データ/大蔵出版,405頁,¥4,800+税,1998年,B6判


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