カトリックの神父にして臨済禅の師家,という人もいるくらいだから,牧師が般若心経の解説書を書いても不思議ではない.とはいえ,著者は真宗の信仰篤い家庭に育ち,たとえば教行信証への理解をみても,とても門外漢とはいえない.(門外漢が解説書を書くべきではない,というのではない.たとえば杉浦明平氏の「歎異抄を読む」は,文学者としてのセンスで書かれており,それなりにおもしろい.)むしろ橋本師にして初めて書きえたのだ,という感を持つ.
冒頭には丹羽文雄の次の言葉が引用されている.
「如来が法をつくったのではない.法は存在そのものの中に客観的にあるものだ.その客観的な存在の真理を悟ることによって,凡夫が仏になれるのである.仏教の立場は,基本的には,弁証法的唯物論の立場と一致する.」
この認識は私のすでに持っていたところである.それはひとえに林田茂雄氏の著書「親鸞の思想と生涯,親鸞をけがす歎異抄」(白石書店)に啓発されてのことで,大学でマルクス主義を専攻していた私にとっては,よく納得がいったが,真宗の宗学者からは無視に近い扱いを受けているようだ.(副題が刺激的すぎるのか?)しかし私にしても,般若心経を唯物弁証法の立場から読むことは考えられなかった.橋本師が「真宗の人たちは般若心経を敬して遠ざけているが,それは公正な態度とはいえない」と指摘しているのは,まことに耳のいたいことである.実のところ,中村元博士の翻訳で何となくわかった積もりになっていたが,それが観念論的解釈にすぎないことを,今回思い知らされた次第である.
その一例を挙げれば,「色即是空 空即是色」の解釈をめぐってだが,これを橋本師は次のように翻訳している.
「形あるすべてのものは,形ないものへと消えて存在しており,形ないすべてのものは,形あるものへと現われて存在します.」
現代物理学では,狭義の物質(すなわち原子から構成される)の生成消滅を,空間とエネルギーとが結び付いた「場」(そしてこの「場」は広義の物質である,客観的実在だから)の相互作用として捉えており,このことを理解すれば,この有名な一句について観念論的解釈をこねまわす必要のないことがよくわかる.
このように言えば,「物理学の<空間>と仏教の<空>は同じではない」とか「仏教は唯物論も唯心論も超越するものだ」という反論が返ってきそうだ.もちろん,解釈というものは多様に存在するので,<空>理解にも時代と地域あるいは学派によって揺れがあること,そして仏教の柔軟性が唯物論的にも観念論的にも解釈できる余地を残していることを否定するものではない.(ただし,唯物論と観念論の対立は一次的なものであって,それらの超越はありえな
い)だから大切なのは解釈自体ではない.しかし神秘主義あるいは体験主義に堕してはならない.大乗仏教の根幹である菩薩行を橋本師も強調するゆえんである.
「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである.肝腎なのはそれの変革である.」(マルクス「フォイエルバッハ・テーゼ」)
本書データ/1996年;白石書店(2016年4月時点で品切れ)