エスペラント(Esperanto)は、一八八七年にユダヤ系ポーランド人(当時は帝政ロシア領)のザメンホフ(Zamenhof)によって発表された国際語案=計画言語(planlingvo[エ]1 、Plansprache[独])である。
国際語といえば、今日ではほとんどの人が英語をもって国際語であると思っているふしがある。しかし、英語は民族語である。特定の民族文化を背景として持つ言語は中立であるべき国際語としてはふさわしくない。本稿の趣旨は「英語=国際語」論への反論ではないので詳しい言及を避けるが、これはほとんどのエスペランチスト(esperantisto、エスペラント使用者)の基本的立場である。
仏教エスペラント運動というとき、その運動(movado[エ],movement[英])とはどういうことなのか。ひじょうに単純にいえば、「エスペラントによって仏教を広め、仏教者にエスペラントへの理解を求める活動」である。これを「運動」と称しているが、英語やフランス語などの民族語による仏教普及運動は「仏教英語(仏語)運動」とも「英語(仏語)仏教運動」とも呼んだりはしない。その違いはどこにあるのか。
言語というものをひとつの道具あるいは手段と見る限り、それによって伝達されるメッセージの方が大切なのであって、それをいかなる言語で表現伝達するかは二次的な問題、したがってなるべく効率のよい(つまり普及の割合が高い)英語を選ぼうとするのはごく自然な態度である。エスペラントを使って世界に仏教を広めようとするのはきわめて効率の悪い、そして極端にいえば無駄な努力ということになるだろう。なぜならば、エスペラントしか解さない人は世界にはいないのだから。
しかしながら、言語は単なるコミュニケーションの手段に留まらない。社会や文化との密接な関わりにおいて存在するのである。したがって、エスペラントにも文化があり、その使用者の形成する共同体がある。それは必ずしも協会とか連合のような明確な組織形態を指すのではなく、ある価値理念の下にゆるやかにまとまった言語共同体である。その価値理念とは、
一 民族的な価値観・文化の違いを尊重する
二 国家、民族、宗教、階級などの枠組みをこえて連帯する
三 エスペランチスト共同体全体としては特定の宗教・政治的見解から中立である(むろん個人として中立ではありえないし、特定の見解を持ち活動するグループを作ることは自由である)
に集約されうる。
このような価値理念は仏教のそれと相似の関係にあるといえないだろうか。仏教はまずなによりも世界宗教・普遍宗教であって、特定民族の救済を説くものではない。また、寛容の精神でもって相手を摂受し、いかなる名目による戦いも認めない。民族、国家、階級、政治的立場等々を「世間虚仮」として相対化してきたのである。私たち真宗大谷派においても「同朋社会の顕現」として目指しているのは、仏法を中心価値としてまとまった自由で平等なコミュニティであろう。ここで、「仏法」のかわりに「共通言語」でおきかえてみれば、エスペランチストがいかなる世界を理想としているかが想像していただけるだろうか。蓮如上人五百回御遠忌のテーマである「バラバラでいっしょ 差異を認める世界の発見」で、あるいは真宗大谷派不戦決議の
「私たちは、民族・言語・文化・宗教の相違を越えて、戦争を許さない、豊かで平和な国際社会の建設にむけて、すべての人々と歩みをともにすることを誓うものであります。」2
において私がイメージしたのはまさしく上記の理念であった。
しかしながら、宗教あるいは仏法とエスペラントのような言語を同一レベルで論じることに抵抗を感じる方もおられるかもしれない。宗教とは「究極的関心」(ポール・ティリッヒ)であるが、言語は人間生活の上で究極ではありえない、というような反発は予想される。しかしながら、現実の社会の中で、言語の持つ重みは宗教の持つそれと比較して、どちらが大切かという問題の立て方はできないと考える。むしろ、宗教が真に「究極的関心」であるならば、宗教者にとって、言語問題を含む社会のありようが信仰や信心の課題とならざるをえないであろう。そのような課題を担わない宗教は観念の遊戯である。
ザメンホフ自身は、人間同士の対立を生む直接の動機は言語の違いと宗教の違いであると考えた。前者の解決手段としてエスペラントが提案されたとすれば、後者に対しては「中立な宗教」という構想があった。今日のわれわれには、かなり奇妙に聞こえる。ザメンホフのこの構想においては、一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)間の対立が問題であって、仏教など異なるタイプの宗教は視野には入っていなかった。この中立宗教の構想は、当初ヒレリズム(hilelismo[エ])と称された。ヒレルとは、紀元前1世紀頃のユダヤ教学者で、律法の人道主義的解釈につとめ、「自分が欲しないことを他人になすなかれ」をもって唯一のユダヤ律法とした。この名称はあまりにもユダヤ的であり、他宗教への配慮のゆえに、後には「人類人主義」(homaranismo3 [エ])と改称されるようになる。一九一三年に発表された「人類人主義の宣言」では、全部で10項目の綱領が述べられているが、そのうちの冒頭部だけ紹介すると、以下のようである。
一 私は人間である。私は全人類を一つの家族とみなす。私は、人類が互いに敵対する様々な人種や民族宗教の集団に分裂しているのは最大の不幸の一つであり、この事態は遅かれ早かれ消滅しなければならず、その消滅をできるだけ促進するのが私の義務と考える。
二 私は、すべての人は人間に他ならないとみなし、すべての人をその個人的価値と行為によってのみ評価する。自分とは異なる民族・言語・宗教・社会階層に属しているという理由で、人間を虐待・抑圧するのは野蛮行為だと考える。4
ただし、この人類人主義は歴史的にはエスペランチストの多くの中心理念として受容はされてきたが、公式にはあくまでも個人的な価値観、政治的宗教的信条の域を超えるものではなかった。すなわち人類人主義を受け入れなくともエスペランチストでありえるのであって、人類人主義とエスペラント自体の価値理念とは混同されてはならない。
この運動は、元来がその性格上国際的なものであって、日本と外国と分けることは適当ではないであろうが、ここでは日本の動きを中心として三つの時代区分を設けて概要を述べることにしたい。
日本仏教エスペランチスト連盟(Japana Budhana Ligo Esperantista、以下JBLEと略称)の創立が一九三一年であるので、それ以前の動きを草創期として見ておくことにする。
日本の仏教者ではじめてエスペラントを学習したのは、確実な史料による限りは、龍谷大学の中井玄道教授で、一九〇四年、留学先のアメリカで英文の学習書を入手して学んだと伝えられる。翌一九〇五年には、東大の高楠順次郎博士も独習によりエスペラントをマスターした。日本のエスペラント界自体に組織的な運動がなかった時代で、この時期エスペラントを学んだといえば、知識人階層における独習が主だったのである。中井氏の場合は、エスペラントでの著述や翻訳もなく、組織的な活動にも参加した形跡がないので、積極的な仏教エスペランチストとは評価しにくいかも知れないが、JBLEの創立大会が、中井氏が当時館長をつとめていた仏教児童博物館を会場として開かれた事実、また後の龍谷大エスペラント会の会長(名目的なもの)をつとめたことからすれば、陰ながら援助者の役割を果たしたと思われる。しかし高楠博士はかなり積極的であったことは、一九〇六年に日本エスペラント協会が設立された時の発起人の一人であったことからも伺われる。
いまひとり、仏教学者でも僧侶でもないが、浅井恵倫氏(大阪外大教授)をあげなくてはならない。浅井氏は真宗大谷派の寺院の出身であり、一九二二年、日本エスペラント学会(日本エスペラント協会の後身)の機関誌"La Revuo Orienta"(東洋評論の意)に「百喩経」をエスペラント抄訳し発表している。これは確認できる限り、世界で最初に翻訳された仏教経典である。なお、翌二三年には「白骨の御文」の訳も掲載された。これを嚆矢として、さまざまな人の手で歎異抄や阿弥陀経などが次々に"La Revuo Orienta"誌上で翻訳発表され、一九三〇年には「仏教特集」が組まれたこともあった。
仏教者としての組織的なエスペラント運動は、一九二一年一一月、大谷大学での初等講習会に始まる。講師は、当時は三高の学生であったが後の京大教授の桜田一郎氏、世話人は細川憲寿氏(後に大谷大学学監)、受講者は百人を超えていたようである。そのわずか三ヶ月後には「大谷大学エスペラント会」が設立されると同時に、機関誌"La Paco"(平和の意)が刊行され始めた。これが世界で初めての仏教エスペランチストのグループであり、仏教エスペラント文献でもある。その設立メンバーは多く、JBLEの中心部隊となっていったのである。中でも太宰不二丸氏(後に大谷大学図書館長)はJBLEの第二代理事長として活躍された。
一方、龍谷大学においても一九二二年同様の初等講習が開かれ、やはり三高学生の八木日出雄氏(後の岡山大学長、世界エスペラント協会会長[一九六二-六四])が講師をつとめた。中心メンバーとしては瓜生津隆雄氏(後に龍谷大教授)など。機関誌は一九二五年より創刊された"La Sankata Tilio"(聖菩提樹の意)。この時代は学生の間でエスペラントブームのような感があり、東京、名古屋、京都ではそれぞれ「学生エスペラント連盟」が結成されていた。したがって、京都において谷大・龍大にエスペラント会が生まれたのも、偶然ではなく、時代の波にのっていたというべきであろう。いずれにしても、この両大学のエスペラント会がJBLEの支えとなっていたことは事実であり、双方の機関誌では次々に訳経が発表され、また「仏教用語辞典」の編纂のために協力体制をとることもなされた。ただこの計画は途中で挫折し、編纂のためのカード類はどこかに失われてしまった。
以上とは別の系統になるが、九州に興った「仏教済世軍」(真田増丸師の主管する信仰団体)は仏教伝道にエスペラントを採用し、中西義雄・豊島竜象両氏が中心となって一九二五年四月「仏教済世軍エスペラント号」を出し5 、八月までに5号を重ねた。中西氏はまた盲人上田順三氏と共に点字済世軍エスペラント欄を出している。さらに中西・豊島両氏は同年十月から雑誌 "La Lumo Senbara "(無礙光の意)を発刊した。
時代はやや遡るが。一九二〇年に東京の秋山文陽氏が、自ら主宰する上宮教会の成人講座において、宗教哲学や自然科学の諸講座とならびエスペラント科が設けられ(以後エスペラント科は独立して「中央エスペラント学院」と称する)、三ヶ月の講習が連続して十回にわたって開催され、のべ五百人の講習生を養成した。第4回講習に先立って行われた宣伝講演会(中央仏教会館)では、秋山氏が直接、大正大学、立正大学、駒沢大学、天台宗大学、豊山大学、東洋大学へと働きかけ、受講者を大学が派遣するように養成した。その甲斐あって、東洋大学の四十八名をはじめ、天台宗大学からは学長自身が聴講に来たようである。秋山氏自身は講師としてではなく宣伝組織者・主催者としてはたらき、日本のエスペラント運動史の中では無名の存在に近いが、柴山全慶氏(臨済宗南禅寺派管長、JBLE初代理事長)は「(秋山)氏の仏教への奉仕と信念とに動かされての崇高な心情は、今日吾々が聞いても胸の熱する思いがある。」と高く評価し、その思い出を数頁にわたって記している。6
1930年の12月、柴山全慶氏はイギリスのGeo Yoxonというエスペランチストから手紙を受け取り、大谷大エスペラント会の"La Paco"についての問い合わせを受け、あわせて世界的な仏教エスペランチストの会を組織したいという相談を受けた。柴山氏自身は1925年ごろにエスペラントを独習しており、1930年7月に「十牛図」のエスペラント訳を出し、それが第1回汎大平洋仏青大会(1930年ハワイにて)の参加者に贈られた縁により、海外に名が知られたのであるが、この手紙に対しては「時期尚早であろう」との返事を出した。しかし、イギリスではすでに「仏教徒エスペランチスト連盟」(Budhana Ligo Esperantista、以下BLEと略称)が1925年に創立されており、英文の仏教誌"The Buddhism in England"の中にエスペラントの頁を設け寄稿者となっていた。もっとも「連盟」とはいうものの、組織的な実体として確立していたわけではなく、ラトヴィアに協力者がいるにすぎなかったらしい。Yoxon氏の意図はBLE会員を日本に拡大することにより世界規模での連盟を創ることにあったと思われる。BLEは1931年3月に自前の機関誌"La Budhismo"(仏教の意)を出し始めるが、それに先立ち、中外日報社の「エス語の仏教連盟」と題する記事(1931.2.16)が青年層の仏教徒エスペランチストを刺激し、太宰不二丸氏は中外日報にエスペラントに関する論文を寄稿し、Yoxon、柴山、太宰の間の通信が始まった。
このような経過にしたがって、JBLE結成に向けた準備会が5月に東本願寺高倉会館にて開かれ、柴山、太宰ら9名が参加した。また翌月には第2回の準備会が大谷派京都教務所で開かれたが、この間の動きを中外日報は逐一報告している7。
JBLE結成に向けての準備と平行して、高倉会館では高倉仏青の主催でエスペラントの展覧会および初等講習が開かれた(講習生53名)。高倉仏青のエスペラント支持は、その会員に大谷大エスペラント会の出身者がいたからでもあるが、その結果として「高倉エスペラント会」が生まれ、その余波は「臨済宗大学エスペラント会」も生み出すにいたった。
準備会においては、発起人らにより次の方針が確認された。
(1)各宗派的色彩を超越して、全仏教徒としての立場を失わないこと。
(2)毎月1回会合を催し年4回の小冊子を刊行すること。
(3)JBLEの名のもとに各種の仏教エス運動をなすこと。
(4)国内仏教エスペラント運動の中心となり、英国のBLEと連絡をとること。
こうしてJBLEは十月に、仏教児童文化博物館において結成大会を開き、四十名の参加者が全国各地から集った8 。
主な活動としては、高倉会館での講習会のほか、機関誌"La Lumo Orienta"(東洋の光の意)の発刊(年4回)、Informilo(ニュースレター)、年1回の日本エスペラント大会の番組のひとつとして仏教分科会の開催、経典の翻訳および刊行などで、約百名の会員を数えた。世界的にみると、この当時エスペラントによる宗教雑誌はキリスト教系が4種出されていたが、仏教系は皆無であったのに、BLEによる"La Budhismo"とJBLEの"La Lumo Orienta"の2種が出ることにより、エスペラント界における仏教の認知度を高めるのに貢献したといえよう。出版の分野でも、一九三七年までに5点の仏教文献を刊行し、他にもJBLE会員による自費出版や日本エスペラント学会からの刊行物として5点、計10点の出版が六、七年の間になされたということは、わずか百名の組織としてはたいへんに健闘したわけである。なおこの中には、暁烏敏の『日本精神』が含まれているが、時代を反映していると言うべきか。そして時代の流れはしだいにエスペラントのような文化的運動には不利になっていく。
JBLEは新興佛青 9 やプロレタリアエスペラント運動とちがって直接の弾圧を受けたわけではないが、紙の価格高騰や印刷所の閉鎖は大きなダメージであった。Informilo(ニュースレター)第23号(一九三七年八月)には次の声明が載っている。
「時代は急角度に転回して欧州大戦後世界を風靡した国際親善の思潮は次第に消え去り、国家と国家・民族と民族・思想と思想がはげしく相克するありさまとなった。この人類にとっての不幸がいかなる樹根から生じているかについては様々の意見があるであろうが、しかし眼前の事実は一時「文化」の諸意圖を顧みている余裕のない、いわゆる非常時の状態であること一つである。かかる時代に文化の一役割であるエス語運動が花やかでないのは当然の成行きである。吾々は、前述のような相克が解消して再び人々が「文化」を顧みる落ち着いた生活を持つ日まで、あらゆる困難と戦って定められた目的に進んできた道ではあるが、一時積極的な行事は中止して退いて自己の余力をたくわえることにしたいと思う。仏教エス語運動史の上に少なからぬ足跡を記してきたのをせめてものよろこびとして、しばらく隠退しよう。世界は動く。やがて遠からず「文化」に恵まれる日があるであろう。その日こそ更に手を取り合って人類のために自分たちの使命に奉仕しよう。」
戦後いちはやく仏教エスペラント運動の再建にとりかかったのは、ドイツ及びスウェーデンの仏教徒で、その二つが統合し、機関誌"La Darmo"(法の意)10 が一九四六年から刊行されるとともに、エスペラント雑誌を通じてBLEへの再結集を呼びかけた。この呼びかけに応じて数名が連絡をBLEと持ちはじめ、「中外日報」や「本願寺新報」(西本願寺)にも呼びかけが掲載された。
正式にJBLEが再建されたのは一九五一年、名古屋で開かれた第38回日本エスペラント大会の仏教分科会の席上で8名が参加して決議した。そしてこの年から、BLEとJBLEの動きを伝えるニュースレターが毎月出され、翌年からはBLEの機関誌"La Budha Lumo"(注10参照)年4回のうち、2回をJBLEの担当発行とすることになった。これは、当時日本から海外送金が困難であり、日本からBLE会費を送金するかわりの措置であるとともに、欧州の個人だけでは年4回の発行が負担であったためである。ニュースレターの方はその後「JBLE月報」と改称され、"La Budha Lumo"の共同発行が停止された後は独自の機関誌"La Japana Budhano"(日本仏教者の意)を出し始め、一九九九年七月で304号を数えるに至った。
戦後のいちいちの動きについてはここでは割愛し、おおまかな傾向を述べるにとどめる。
一 ヨーロッパの運動は、BLEの名を冠していても、実質的には個人の活動の域をこえず、中心人物が亡くなればすぐに機関誌が途絶え、また別の国で発行されるなど、系統性・継続性・安定性に欠ける。すなわち、各国に仏教エスペランチストのグループがあってその上部組織としてBLEが成り立っているわけではなく、会員は各国に散在しており、その中では日本のみがJBLEという自前の組織を有しているのである。現在BLEは活動を停止している(解散した記録はなく、連絡がとれない状態にある。)
二 日本を除くアジア各国についても、個人で経典翻訳などの業績をあげることはあるが、運動として成り立ってはいない。
三 韓国には「圓仏教」(Wonbulism[英],Ŭonbulismo[エ])という新興宗派がエスペラントを布教のための言語と位置付け、「圓仏教エスペラント会」が一九八〇年代はじめから活発に活動し、特に学生層で支部が組織されている。インターネットのホームページもエスペラントで読めるようになっている。ただし、JBLEとの公式な提携関係はない。
四 日本の運動は個人の努力で支えられている部分はもちろん大きいが、それなりの継続性・安定性がある。しかし近年会員の高齢化が進み、若年層に浸透しきれず、『仏教聖典』(仏教伝道協会)のエスペラント版を一九八四年に出したのをピークに、ルーティンワーク11 以外の活動ができていない。現在会員数は約五十名、購読会員を含めても九十名弱である。
仏教エスペラント運動が全体的には退潮傾向にあることは否めない。そのなかで、仏教とエスペラントに対して理解を求めていく活動が最優先課題となる。そしてBLEなき現在、JBLEは日本のみならず世界全体へ情報発信していく課題を担っている。具体的にはつぎのようなことである。
一 過去八十年弱の間に翻訳された経典はかなりの点数にのぼる。あるものは単行本で、あるものは雑誌で発表されているが、大多数は散逸しかけており、それらをすべて蒐集し、テキストデータベース化をすすめ、何時でも誰にでも利用できるかたちにしていく。
二 それらの成果の上に立ち、不十分な翻訳をあらためるとともに、未翻訳の経典の翻訳をすすめていく。なお、翻訳につきまとう用語上の問題は、現在完全に解決されているわけではなく、基本的な語彙についてさえ、不統一がみられる12 。しかし本格的な仏教用語辞典の完成を待ってから翻訳にかかるのではなく、翻訳をすすめるなかで用語の問題は解決されると考えねばならない。ただ、質的に満足の行く翻訳を出すためには、翻訳者に求められる条件として、仏教に関する理解があることはもちろん、サンスクリット・パーリ語・チベット語・仏典漢語のいずれかが読め、エスペラントを完全に習得していることが必要である。それらの条件を満たしている者はどれだけいるか、となると、世界で十人を超えることはないだろう。いずれにしても、これは何十年ではなく何百年という長期的展望での作業となる。
三 情報発信の手段としてはインターネットの普及に伴い、有利な条件は整いつつある。これの利用は遅かれ早かれなされることになろう。
四 焦眉の課題としてはエスペラント版『仏教入門』の作成と普及がある。世界中に仏教に関心を持つエスペランチストは少なくない。筆者は「世界エスペラント協会」で仏教に関する「専門デレギート」 (fakdelegito[エ]13 )を務めている関係で、仏教について問い合わせを受けることがある。その時にエスペラント書きの入門書がぜひとも必要であると痛感する。これは現在原稿執筆段階である。
仏教はいま世界のいたるところで注目されている。仏教界が英語だけではなくエスペラントを用いて世界の期待に応える時代がやってきた。エスペラントのできる布教師を養成して世界中を回らせ仏教の理念を伝える、そんな発想ができる人が教団の中に増えていくことを、仏教徒エスペランチストとして筆者は祈念する。
現在の運動の傾向は、本稿発表時点から大きく変化してきた。その第一は、国際組織BLEの再建である。これについては「BLE再建から新たな前進を」などをお読みいただければ分かるが、インターネットという道具技術が大いに寄与している。JBLE自身も、出版物や集会などで積極的に外とのつながりを意識した活動を展開しているところである。